日別アーカイブ: 2022年2月1日

戦国三人の茶人

戦国の茶人といえば、千利休、古田織部、小堀遠州、他、何人かか゛いる。茶の湯を政治に取り込んだのは織田信長である。彼は茶会を独占し、手がらを立てた家臣等に茶器を与えたり、茶会を催す資格を与えたりした。戦国時代の大名、武将にとって、茶会はやがて政治的な社交の場となっていく。そうした中で、千利休、古田織部、小堀遠州の茶の大師匠たちが忙しく活躍していく。特にこの三人はそれぞれの茶の湯の芸術を際立出せて、それは今日の茶の湯に受け継がれてゆく。

しかし、この三人の茶人の生き方はそれぞれ、劇的なものである。千利休は秀吉に接近し、茶の師匠であるとともに政治顧問となるほどの地位まで上り詰める。しかし、大徳寺の山門の上階に自分の等身大の木立像が置かれた。この山門は時には朝廷や秀吉も潜るものでもあった。そこを無礼千万であると石田三成らに揚げ足を取られた。そのほか、朝鮮侵攻についての秀吉との齟齬、利休の娘の側室への拒否、利休の茶道具の高額な売り付け等々の理由により、切腹の責めを負うことになった。利休の名望を常々疎ましく思っていた秀吉の側近たちにとって、大徳寺木立像の事件は、利休追い落としの絶好の機会となった。これは利休の油断とあまりにも利休が政治に深入りし過ぎた結果ではなかろうか。

利休の七哲と言われた古田織部はどうか。この人は小大名であった。あの織部焼で有名な茶人である。利休亡き後、秀吉そして関ヶ原合戦後は、徳川家の茶の湯の師匠となった。織部は豊臣家と徳川家とが険悪となると、両者の仲介に努めた。子息をそれぞれの家の小姓にあげた。織部を師匠とする大名の多さに、徳川幕府はやがて織部を危険視する。そんな折、大阪夏の陣の最中、古田織部の陪臣が、家康暗殺の計画に加担したことが露呈する。この結果、古田織部とその子息らに切腹の命がくだった。織部自身は知らなかったようです。が、知らなかったでは済まされないと観念した織部は、一言の弁明もなく処分にしたがった。古田家はお家断絶に追い込まれた。これも織部の油断・慢心と織部が自分の足元をどこに置くべきかを見誤った結果ではなかろうか。

小堀遠州も小大名であった。古田織部を茶の師匠とした。この人は、千利休や古田織部の生きざまをみて、両、茶の湯の師匠の轍を踏むまいとして、茶庭造りや幕府の茶の湯の指導に専念した。大名たちの茶の湯の指導や茶庭造りを最小限にとどめ、政務に深く関わることを戒めた。遠州は、普段は幕府の各地の作事奉行をつとめた。その後、小堀遠州はその文化的教養をかわれて、朝廷との行事にもかかわる京都伏見奉行に抜擢された。権謀術数の限りの戦国時代を潜り抜け、「綺麗寂び」の茶の湯の道を極めた小堀遠州。遠州を主人公にした小説には、「孤蓬のひと」(作者 葉室 麟)がある。今まさに私は、「孤蓬のひと」を読み始めたばかりである。

コロナオミクロン禍にあって、おなじ過ちを繰り返しているお上のコロナ対策。50万といわれる自宅療養とまたしても医療ひっ迫。もうウンザリですネ。自分の身は自分で守るしかない。そう思います。コロナウイルスからなんとしても逃げきらなければならない。ウイルスにおびえて、家にチヂミこんでいる私のなんと滑稽なことか。                                     ウイルスが笑っているよ人類を   風 鈴

今日はちょうどNHKにて、知恵泉選にて「古田織部」の番組があった。