来年のNHK大河ドラマ(3)

二つ目の障がいとなる男は織田信長である。家康は、信長とは桶狭間以後20年に及ぶ同盟関係を結び、長篠の戦い、姉川の戦い等互いに協力し合って、ついに強敵である武田家をも滅ぼした。家康は、ここで三河,遠江、駿河国を領有する大々名になった。

天正10年五月十五日、家康は武田氏の一族穴山梅雪とともに信長の招きにより安土城を訪問することになった。ほとんど非武装にて、主だった重臣のほとんどを連れて総勢100人ほどで旅立った。しかしこれは非常に危険きわまりない旅立ちだ。警備体制は万全とはいえ、まだ世の中は混とんとして、道中は決して安全とはいえなかった。

家康はここでも、鳥居元忠、服部半蔵配下の諜報員(忍び)を動員して、24時間の情報の収集に当たらせた。家康一行は、安土城にて信長の手厚い歓待を受けた。接待役は明智光秀であった。その後光秀は信長より、毛利討伐戦に加わるよう命ぜらる。

信長は武田家の滅亡により東の脅威はなくなった。信長は、家康が少々大きくなりすぎて、いつ反旗を翻すか危惧するようになっていた。どこかで家康を処分する機会をうかがっていた。が家康はなかなかすきをみせない。家康は息子信康事件のように揚げ足を取られないように、細心の注意を払って信長に接した。

家康一行は五月二十一日以降は京都、大阪、堺と訪れた。この間、家康は信長、信忠の動き、信孝軍、朝廷の動向、光秀軍の動向等あらゆる角度から情報収集を怠らなかった。元忠、半蔵、茶屋等のもたらす機密情報を家康はなによりも心待ちにし、秘かに分析にふけった。

六月一日、信長は僅かな供回りを連れて、京都本能寺にはいった。その日は朝廷の公家等を招き茶会が催された。六月二日、家康は本能寺の信長に帰国のあいさつに伺うことになっていた。

元忠、半蔵の諜報員(忍び)の幾人かの犠牲を払いながら、光秀軍の決定的情報をつかんだ。二日夜半、光秀軍は本能寺に向けて、あらゆる音と灯りと行き交う人を消し去って進軍したのだ。半蔵は家康に「このことを信長様に知らせましょうか」と進言した。家康は「いや、待て、まさか光秀殿が謀反を・・・・」。しばらく家康の沈黙が続いた。そして「半蔵!これは聞かなかったことにしておくぞ」と家康は言って、寝所に戻った。その夜、家康はほとんどねむれることが出来なかった。その後も忍びの情報が次々ともたらされ、京にいる茶屋の直接の知らせも届いた。ついに光秀殿が「やったか」そう確信すると家康は一刻も早く三河に帰るべく、旅立ちの支度を家臣等に命じた。

家康は長い間、重石となっていた信長から解放される心の底から湧き上がる喜びをかみしめていた。と同時に謀反を黙殺したことに対する後ろめたさ、自責の念も感ぜずにはいられなかった。「これは信長様の自業自得だ、ご油断召されたな、こうゆうこともあろうに」と家康はほくそ笑えんだ。

「いや、それどころではない。これから光秀軍がわしの首を打ち取りにくることだろう。いかにして、これから三河に帰ろうか」と家康の頭の中はそのことでいっぱいだった。

ここでも家康は自分の手を直接汚さずに、二人の男を葬ったのである。

家康一行の逃避行で、二つの疑問が残った。一つはなぜ光秀はただちに信長の同盟関係の家康の首を取らなかったのか。もう一つはなぜ穴山梅雪だけが死んだ(殺された)のか。ということです。