来年のNHK大河ドラマは「どうする家康」ですが、徳川家康は、一般的にはあまり好かれていない人物像ですね。冬・夏の大坂の陣の豊臣家に対する無謀な処理や典型的には家康は狸おやじとか言われています。まあこれも明治時代に江戸時代を否定的にしか見ない現政権のいつものパターンのようなものです。
家康には生涯大きく分けて三つの障がいとなる男がいたとされる。一人は今川義元、二人は織田信長、三人目は豊臣秀吉である。しかし、家康はこれら三人の障がいを艱難辛苦のすえに一つ一つ乗り越えていくのである。
一人目の今川義元に対しては、元康(のちの家康)は幼少期より桶狭間の戦いまで、駿河の駿府で人質生活を送っていた。元康と三河家臣団にとって三河の独立は松平家の悲願であったが、その見通しはなかなか難しかった。義元一人を暗殺する機会はいくらでもあったが、強靭な家臣団が残ったままでは三河の独立は夢のまた夢でしかない。元康と三河家臣団は義元とその強靭な家臣団を同時に葬る機会を待っに待った。
ついにその機会がおとずれた。義元の上洛である。日頃から国境で小競り合いを繰り返しいる尾張の織田がすんなりと素通りを認めるわけがない。織田にとっても大軍今川とどう戦うのか、負ければ織田家の消滅を意味した。当主は若き織田信長であった。
元康と三河家臣団は、今川軍本隊とは引き離されて、危険な最前線の大髙城に兵糧を搬入する任務に就いていた。これが結果的に幸いした。義元がどこにいるかは、今川陣内でも最上級の機密情報であった。まして外様の三河武士団の元康には、義元の所在は知らせれることはなかった。元康は焦ったが、義元の確かなる所在を突き止めるべく、密かに鳥居・服部の家臣にその危険な任に当たらせた。義元の確かなる所在を突き止めた元康は、これを手筈通りに織田方家臣水野信元に知らせた。なお水野家は元康の生母の実家である。信長は、自分の得た情報との一致を確信し、今川軍本陣を桶狭間にて奇襲し、義元の首を打ち取った。
こうして元康と三河家臣団は、今川義元から念願の独立を勝ち取ったのである。これが元康と三河家臣団の「義元とその強靭な家臣団を同時に葬る」機会を待っに待った結果である。