このところ何年も、新型コロナウイルスやロシアの戦争によるエネルギー、食糧危機、経済不況等で巷は重苦しいニュースばかりで気持ちもふさぎがちだった。ところがドイツ政府が、2023年4月15日、全原発停止を実現したというニュースが流されました。ひさしぶりに気分が晴れた思いです。人間の歴史はこの地球にとって悪いことばかりではない、たまにはいいこともあるんだと思った。そしていつも人間の歴史の変革はヨーロッパから始まるのだなあとの思いを強くした。 原発がなぜいけないのか「それは人類がいまだに原発をコントロールできない代物だからです。」福島原発事故のデブリの小さじスプーンの一杯さえも搬出できない現状をみればあきらかです。未だにふるさとに帰ることもできないおおくの住民のいること、そして毎日毎日発生する汚染水をついに海に放出するしかないところまで追い込まれています。 とっさできた川柳か゛「原発忌歴史はいつもヨーロッパ」です。 汚染水龍宮城に降りしきる 風 鈴 太陽が俺を使えと人類に 風 鈴 原発は危険汚い高価格 風 鈴
「ホルン系ハーモニカブログ」カテゴリーアーカイブ
たがゆるむ電車もバスも咳だらけ 風 鈴
また処分ますます卵が高くなる 風 鈴 もう少し人類は生き物たちの生命の尊厳を考慮すべきではないでしょうか。一網打尽ではなく、選別作業を惜しまぬ努力をしてほしいものです。こんな事を続けていればいつの日か彼らがウイルス発症の原因となって地上に這いい出て、人類に襲い掛かってくることでしょう。
制裁だますます平和が遠くなる 風 鈴 制裁をしている国々の過去の歴史のおぞましい行為を忘れていないか。
汚染水龍宮城に降りしきる 風 鈴 ウイルス禍行政サッサと店じまい 風 鈴 ウイルスが俺をなめるな日本に 風 鈴 ウクライナばかりがこの世の闇ならず 風 鈴 ウクライナ大本営はBBC 風 鈴 ジェレンスキーひとのふんどし借りまくり 風 鈴
いつの世も神を仏をくいものに 風 鈴
9条は世界の誇り人類の 風 鈴 軍拡に復興税をかすめ取る 風 鈴 ウイルスが俺をなめるな日本に 風 鈴 ウイルスを自由気ままの野放しに 風 鈴 ウイルスが 9波10波を予告する 風 鈴
汚染水龍宮城に降りしきる 風 鈴
汚染水海に流して流れたと 風 鈴 汚染水海に流すは悲願なり 風 鈴 汚染水龍宮城に降りしきる 風 鈴 原発は金金金の金まみれ 風 鈴 原発は危険汚いコスト高 風 鈴 原発にこだわるわけのその裏は 風 鈴 いつの日か人類滅亡原発で 風 鈴 原発はマグマの上で稼働する 風 鈴 再稼働安全ばかりを絶叫す 風 鈴 原子力緩和委員会改称す 風 鈴 妖怪が深く静かに身をひそめ 風 鈴 安全と言われて帰る人もなし 風 鈴 太陽が俺を使えと人類に 風 鈴 ロボットでデブリ操作もままならぬ 風 鈴 「原発」がなぜいけないのか。それは人類が未だ「原発」をコントロールできていないからです。
ウイルスを撃滅せん滅どこへやら 風 鈴
新型コロナウイルス発症年の2020年に、人類はウイルスをすぐにでも撃滅せん滅せんと勇ましく息巻いていました。それがどうであろうかウイルス禍はなんと3年も続き、4年目となる第8波に突入しました。そして今だに収束の兆しも見えません。 このウイルス禍は結局、集団免疫による収束しかないのではないか。そうすると、まだまだ大波、小波と来年も続くことになるでしょう。 ウイルスに両手をあげて降参す 風 鈴 過去最多今じゃないでしょ無制限 風 鈴 ウイルスが俺をなめるな人類に 風 鈴
この間人類は一度も一つになれず、WHOは講釈、解釈ばかりで、その存在意義を問われています。そしてロシアはコロナ禍にもかかわらず戦争まで引き起こした。世界はコロナ禍にくわえ、エネルギー危機、食料危機、戦争の拡大の危機に直面しています。
私達はすごい時代に生きいます。これはいつまでも人類の歴史にきっときざまれることでしょう。しかし、これから大切なことは、私達はこの大きな大河の流れに流されつつも、自分の立ち位置を見失わないないことではないでしょうか。
コロナ禍によくも戦をプーチン禍 風 鈴
まもなく苦節、四年目となろうとしているコロナ禍に、プーチン露大統領は戦争をしかけました。温暖化の災害に加え、人類もすべての生き物も、まさに二重苦、三重苦にあえいでいます。私たちの生活はもう防戦一方でなすすべもありません。そのなかで、気にかかることを川柳にしてみました。 ウクライナ(の)被害ばかりを垂れ流す 風 鈴 今の世界ではウクライナ以外でも戦争の災禍は絶えません。 プーチン禍これ幸いと軍拡化 風 鈴 プーチンの在庫一掃ミサイル禍 風 鈴 ウイルスにミサイル打ち込む国もあり 風 鈴 論客の言ってるように世はならじ 風 鈴 マスコミの出所は同じ大本営 風 鈴 マスコミの飼いならされた猿となり 風 鈴
打つ手なくなりゆきまかせの第八波 風 鈴
打つ手なくなりゆきまかせの第八波 風 鈴 2020年の新型コロナウイルスの発症の初期に戻ってしまったようです。その時より、今の時期のが危険のように感じます。三年目のコロナなれとコロナ疲れで世の中が、もういい加減にしろという感じです。しかし、国や行政は何時でも、医療ひっ迫を起こしてはなりません。
行政は早くも、自宅療養ありきのかまえです。これではまた、これまでと同じ様に、どたばた劇の繰り返しを見ることになるのでしょう。態勢に流されないように、これからも、自分の身、家族の身を守らなければならないと思います。コロナが収束するまで、これまでと同じように皆さんに義理を欠くことになるかもしれませんが、🙇ご免んなさい。
久しぶりコロナ 一面記事となり 風 鈴 ウイルスが俺をなめるな日本に 風 鈴 波ごとにワクチン打って効いてるの 風 鈴 第八波自宅療養はじめから 風 鈴 ウイルスが自宅療養ありえぬと 風 鈴 観光でコロナ手みやげ帰国する 風 鈴
梶原景時の失脚
梶原景時は源頼朝が旗挙げしたとき、平家方の敵であったが、洞穴に隠れていた頼朝を見逃して、後に頼朝の側近となり、できたばかりの鎌倉幕府を支えた人物である。
景時は、鎌倉幕府の侍所の別当(御家人の統率・警察・軍事司令部)になったり、戦ともなれば戦奉行・戦目付・軍監となり、頼朝の手足となって働いた。いつも頼朝の意向をくみ取り、厳格にして誠実な政務に携わった。だから他の御家人にとっては怖い怖い存在となった。この人の諫言によって、多くの御家人がその地位を追われている。後世の石田三成のような人ですね。
有名なのが源義経の追放です。軍目付として梶原景時は平家との戦において、義経の戦の非凡さをみとめながらも、義経の戦における勝手なふるまいが多く、また、兄頼朝の承諾もなく朝廷より官位をうけたり任官したことを頼朝に報告した。これにより義経は鎌倉に帰ることも許されず、やがて追補されることになり、奥州にて死することになる。
義経追放により、景時は御家人の間でもひどく評判を悪する。しかし、本当のところは頼朝の意向であり、所詮、腹違いの弟であり、頼朝にとって用が済めば、いつか義経を処分するのは既定路線だったようです。だからこれは義経の不用心というほかない。賢さもほどほどにして、肉親の兄といえども安心して心身をさらけ出してはいけなかったのだ。
武士の世を磐石にするという志を半ばにして頼朝は倒れた。景時は頼朝の死後、二代将軍頼家の後見人となったが、景時の威勢もここまでであった。景時もまた武士の世を磐石にするという頼朝の志をともにしながら、道半ばにして、多くの御家人の讒言により、鎌倉を追放されることになってしまったのだ。
梶原景時みたいな人、今でも役所や会社、地域にも、ときどき見かけますよね。自分の力というよりも後ろ楯をいいことに正義を振りかざすひと、今風パワハラをする人。 後ろ盾失くせばただの一人なり 風 鈴
打つ手なく流れるままの第 7波 風 鈴
巷は新型コロナウイルスがあたかも収束してしまったかのように、なにもかもが緩和されつつあります。しかし、本当にこれでよいのでしょうか。感染者数が過去最多なのですから、通常なら、緊急事態か蔓延防止等の処置がされるところでしょうが、国も行政も今回はなしのつぶてのようです。えー、何もしない。これではすぐに第 8波がやって来ることでしょう。これからは、一人一人の判断でこの新型コロナウイルスに対処していくしかないようです。コロナ感染で、今が一番危険なときだと私は思います。第 8波はすぐにやってくることでしょう。おのおのがたゆだんめさるなよ。
打つ手なく流れるままの第 7波 風 鈴 過去最多今じゃないでしょ無制限 風 鈴 ウイルスのうなぎのぼりがたきのぼり 風 鈴 ウイルスが甘くみるなと日本に 風 鈴 波ごとに医療ひっ迫押し寄せる 風 鈴 セルフケア聞こえはいいが見捨てらる 風 鈴 ウイルスが自宅療養ありえぬと 風 鈴 収束の宣言もなく収束し 風 鈴 コロナ死はとむらいさえもままならぬ 風 鈴 コロナより逃げて逃げての逃げまくる 風 鈴
来年のNHK大河ドラマ(3)
二つ目の障がいとなる男は織田信長である。家康は、信長とは桶狭間以後20年に及ぶ同盟関係を結び、長篠の戦い、姉川の戦い等互いに協力し合って、ついに強敵である武田家をも滅ぼした。家康は、ここで三河,遠江、駿河国を領有する大々名になった。
天正10年五月十五日、家康は武田氏の一族穴山梅雪とともに信長の招きにより安土城を訪問することになった。ほとんど非武装にて、主だった重臣のほとんどを連れて総勢100人ほどで旅立った。しかしこれは非常に危険きわまりない旅立ちだ。警備体制は万全とはいえ、まだ世の中は混とんとして、道中は決して安全とはいえなかった。
家康はここでも、鳥居元忠、服部半蔵配下の諜報員(忍び)を動員して、24時間の情報の収集に当たらせた。家康一行は、安土城にて信長の手厚い歓待を受けた。接待役は明智光秀であった。その後光秀は信長より、毛利討伐戦に加わるよう命ぜらる。
信長は武田家の滅亡により東の脅威はなくなった。信長は、家康が少々大きくなりすぎて、いつ反旗を翻すか危惧するようになっていた。どこかで家康を処分する機会をうかがっていた。が家康はなかなかすきをみせない。家康は息子信康事件のように揚げ足を取られないように、細心の注意を払って信長に接した。
家康一行は五月二十一日以降は京都、大阪、堺と訪れた。この間、家康は信長、信忠の動き、信孝軍、朝廷の動向、光秀軍の動向等あらゆる角度から情報収集を怠らなかった。元忠、半蔵、茶屋等のもたらす機密情報を家康はなによりも心待ちにし、秘かに分析にふけった。
六月一日、信長は僅かな供回りを連れて、京都本能寺にはいった。その日は朝廷の公家等を招き茶会が催された。六月二日、家康は本能寺の信長に帰国のあいさつに伺うことになっていた。
元忠、半蔵の諜報員(忍び)の幾人かの犠牲を払いながら、光秀軍の決定的情報をつかんだ。二日夜半、光秀軍は本能寺に向けて、あらゆる音と灯りと行き交う人を消し去って進軍したのだ。半蔵は家康に「このことを信長様に知らせましょうか」と進言した。家康は「いや、待て、まさか光秀殿が謀反を・・・・」。しばらく家康の沈黙が続いた。そして「半蔵!これは聞かなかったことにしておくぞ」と家康は言って、寝所に戻った。その夜、家康はほとんどねむれることが出来なかった。その後も忍びの情報が次々ともたらされ、京にいる茶屋の直接の知らせも届いた。ついに光秀殿が「やったか」そう確信すると家康は一刻も早く三河に帰るべく、旅立ちの支度を家臣等に命じた。
家康は長い間、重石となっていた信長から解放される心の底から湧き上がる喜びをかみしめていた。と同時に謀反を黙殺したことに対する後ろめたさ、自責の念も感ぜずにはいられなかった。「これは信長様の自業自得だ、ご油断召されたな、こうゆうこともあろうに」と家康はほくそ笑えんだ。
「いや、それどころではない。これから光秀軍がわしの首を打ち取りにくることだろう。いかにして、これから三河に帰ろうか」と家康の頭の中はそのことでいっぱいだった。
ここでも家康は自分の手を直接汚さずに、二人の男を葬ったのである。
家康一行の逃避行で、二つの疑問が残った。一つはなぜ光秀はただちに信長の同盟関係の家康の首を取らなかったのか。もう一つはなぜ穴山梅雪だけが死んだ(殺された)のか。ということです。